2013年2月4日月曜日

「結ぶ」を実現するもの、6月チャリティーコンサートへ向けた稽古

鼓遊は11月に入ると、6月のチャリティーコンサートへ向けた構成練りや楽曲の検討をはじめます。今年のテーマは「結」。テーマを表現すべく、さまざまな方法に取り組んでいます。


今週の週末の稽古では、特に道場の「掃除」に関してやりとりをしました。むろん一日かけて稽古はしますが、その「稽古」という「場」について考えるということが大切になります。

掃除はとても貴重で、往々にして、掃除ができないメンバーは、演奏もできないという現実があります。演奏を整理して自分の血肉とするという行為は、掃除と似ています。掃除ができないメンバーは、だいたい演奏も適当です。

しかし、このあたりは本人が理解できるか、飲み込んで自らの血肉とできるか、が大きなところがあって、無理に言っても意味がなかったりします。

習慣的に掃除や作法を身につけることが、本番演奏における、なんとなしの行動に影響を与えるという事実があります。そこを伝えるべく話をしますが、やはり上級メンバー以外はしっくり納得できない様子です。

特に小学生は、作法や形式美云々よりも、自分が叩いていて楽しいかどうかを優先します。これは良い悪いではなく、性質としてそういうものなので、無理強いしても意味がありません。

それでも小学生上級メンバーは「見た目の良さと自分の心地よさ、形式美的良さ」を考えます。どう見られているかを考えているからです。小学生下級メンバーは、叩くことすらおぼつかない現状。太鼓を叩きつつのテンポキープはプロですら難しいレベル。試行錯誤が続きます。


鼓遊のメンバーは小学生低学年から成人、音楽のプロまでさまざまです。このすべてが同じ場所で、同じ稽古をしているというのは、ある意味奇跡のような空間といえるでしょう。

全員が相当に頭をフル回転しながら、お互いを補って、そう、これは言葉としてはおかしなニュアンスになると思いますが「最高の稽古」をしようとします。正直なところ、高校生以上のメンバーだけの方がやりやすいところがあります。楽譜も読めるし、細かいニュアンスも「言語化」で伝わるからです。「仕事がしやすい」と表現してもよいでしょう。

しかし、言語化がおぼつかない中学生以下であっても、言語化が弱いがゆえの豊かな感性と表現があり、はっとさせられることが多いんですね。特に言語化に頼らない表現の強さは高校生以上になると忘れてしまう独得の強さがあり、勉強になります。

鼓遊はこのように、全方位の良さを毎日勉強しながら、日々の稽古に取り組んでいます。そこに木崎独特のこだわりが加わり、鼓遊の「鼓遊らしさ」が作られていきます。無茶ぶりに対し「応えて当然」、「できないわけがない」というチームワーク、この状況と精神を作ることが、鼓遊の鼓遊たるゆえんだといえます。